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添乗員の声

山口 諒子 アメリカン・インターナショナル・アカデミー出身 マンデラ採用 2011年

神戸出身、添乗歴約120ヵ国。

正直にいいますと、自分の今まででの経歴に自信がありませんでしたが、やる気だけはあったのが20歳の頃の私です。大手など他社の面接も色々考えましたが、履歴書での判断ではなく年齢や学歴を問わず完全実力できる勝負するのはマンデラだけでした。業界で1番小さく歴史のないマンデラに一番大きな可能性を感じました。

一言で表すのは難しいほどに人間味溢れる個性豊かで添乗員一人一人のモチベーションや性格をしっかりと把握してくれている会社です。添乗員同士も仲がいいですが、サークル乗りの雰囲気ではなく、年功序列を払拭した完全実力主義なので時に友達。時に良きライバルです。現在に至るまで、私もマンデラに入って色々失敗しましたが、人間味溢れるマンデラのお陰でたくさんの壁を乗り越えて来ることができました。また、常に旅行会社様から依頼を頂くことの大切さをしっかりと意識しながら日々添乗しているので、添乗に対して本気です。自分のやる気があれば何でもできる、どこでも行けるのがマンデラです。若干20代にして秘境、山、クルーズと約120ヶ国を添乗で巡ったことが他社では成し得ないマンデラという可能性の象徴になっています。こんなにも良い意味で業界の常識を破り、濃い経験ができるのはマンデラだけでしょう!20歳の頃の私の会社選びの判断は間違っていなかったと確信しています。添乗は決して楽な仕事ではありません。現場では言い尽くせないほど様々なトラブルや大変な事があり、常に大きな責任と自分への評価が付いてきます。ただ、それらを乗り越え世界を肌で感じられる事はこの仕事ならでは。頑張った後に旅の話をつまみに仲間と飲むお酒は至福の時です。

昔はマンデラの大阪営業所が本町にありました。ビルの名前は「ラッキービル」です。笑・へんな名前のビル。本町の中では多分一番のボロビルです。引き戸を開けて、一瞬、階段を上るのをためらいたくなるような雰囲気のビルでした。結局は大手添乗会社の内定を蹴って選んだマンデラでしたが、大阪営業所のとても狭いスペースは内勤の方の生活スペースにもなっており、驚愕でした。暫らくして海外添乗をスタートしましたが、マンデラは契約会社もほとんどなく、添乗依頼もほとんどない状態。ですから、1本1本が命がけで、1本添乗に失敗したら、会社自体が消滅してしまう・・・・そんな思いで、マンデラの看板をとにかくしっかりとしょって添乗という意識が強くありました。あれから10年以上の月日が流れました。大阪営業所は結局失敗に終わり、閉鎖されました。
私の海外添乗人生はマンデラに始まり、20代の全てがマンデラでした。年齢を重ね海外添乗を続け、以前に比べて疲れる場面も多くなりました。改めて海外添乗は体力勝負だと思い知らされています。年齢を重ねながら上手く引く場面と押しの場面をバランスよくやりくりしながら、私自身も最後まで笑顔がだせるような体力の調整が必要だと感じています。この辺りが今後の私の添乗の課題です。
時は戻ることもありませんが、もう一度あの頃に戻って人生をやり直すなら・・・・・私はやはりあの引き戸を引いて階段をあがると思います。現在は契約会社も増え、現在もマンデラのメンバーとして、主には成田空港から海外添乗をしております。状況は随分改善されましたが、時にあのとんでもない大阪営業所時代を懐かしく感じる今日この頃です。

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